上條淳士の漫画「SEX」は「境界」が主要なテーマとなっているが、同時に、「(世界が)どう見えるか」ということも、色盲という設定のユキを絡めて重要なファクターになっている。前回記事でもそれに関することを少し書いたが、今回も若干その続きを。

かつて漫画家「上條淳士」が女性のパートナーと2人一組で執筆していることは、渋谷陽一のサウンドストリート(ラジオ番組)の上條淳士氏インタビューで聞いたことがある。まさに80年代「To-y」連載中の頃だったと思う。当時は名前も出てこなかったが、パートナーの名は村瀬葉子(YOKO)氏。しかし後にコンビを解消することになる。時期は不明。
俺は「To-y」はリアルタイムで連載読んでいたが(毎号ヤンサン立ち読みで。ビンボーだったもんで…)、その後は漫画全般に対する関心が薄れてしまい、「SEX」は読んでいなかった。
「SEX」をリアルタイムで読んでいた読者からは、YOKO氏が離れた後の絵がどうも…という意見があるようだ。「SEX」の後半から変わってきたとか。が、俺はYOKO氏不在時とそうでない時期の、上條漫画の絵の違いがわからない。違いが見えない。見えないのは、その世界線に関心がないからだ。注意深く観察すればわかるのかもしれない。量子力学的には、観察者の意志の強度によって観察結果、つまり見える世界が変わってくるという。でも、わかったところで何なんだ?と思うから、注意深く観察する気もない。そんなことより、俺はただこの素晴らしい傑作漫画の世界を楽しみたいんだ。

違いがわからないと言ったものの、さすがに80年代に(おそらくYOKO氏により)描かれたカホの顔と、2017年にカバー用に上條氏が書き下ろしたカホの顔が違うことくらいは、わかる。しかし、それが何だというのだろう?
1人の漫画家が書き続けていても、連載途中でタッチや人物の顔が変化するのは普通にあることだ。「初期の方が好き」「今の方が好み」と読者によって感想は変わるだろうけど、まさに好みの問題で、ジャッジを下す問題でもない。いや別に、ジャッジを下す自由はあるけど、この周辺に関してネット上に否定的な意見が蔓延するのは俺的に納得いかないからこの記事を書いている。

量子力学を持ち出さなくとも、ヒトは基本的に関心がない事柄は見えないもんだ。無条件で「SEX」サイコーだよ!な俺には(やっぱ、語弊が…)、この作品の絵が全編通してカッコよくしか見えない。「キメ」のページはもちろん、小さいギャグっぽいシーンの表現とかも、全部いい!最高かよ!
…という風に、俺には見えているんだな。
上條淳士「SEX」(30th Anniversary Edition)読了。大分前から読みたいと思っていたんだけど…、Amazonでポイントが4000以上貯まるのを待ってポイント使って、やっと読めた。

いい。本当に、全部いい。ストーリーも含めて全部。
…と、俺的には最高に痺れる作品だと思うんだけど、ネット上の記事を拾うと「絵や雰囲気を楽しむ作品」といった見方が大半で、ストーリーに言及したものがほとんどない。また、前半くらいまでは面白かったが後半は微妙…的に、後半部分で評価を下げたり。いや、ストーリーとか、後半含めて全部最高なんだけど!?何なんだその評価は…!? と、モヤモヤがたまりまくった。
その流れで、「ええわ、ほんならわいが書いたるで!!」と思ったから書く。
といってもガチガチなお固い論評をここで展開する気はさらさらなく、気になったことを勝手につらつら述べるだけだけど。
まず自分的に取り上げたいポイントが、“Triangle Relationships”。どうも日本語にすると下世話なイメージになってしまうが、いわゆる「三角関係」だ。
三角関係となると村上龍の「コインロッカーベイビーズ」や「愛と幻想のファシズム」を連想せずにいられず。ちなみに一応説明しておくと、「愛と幻想のファシズム」の主要な登場人物は以下。
鈴原冬二、相田剣介と聞けば「新世紀エヴァンゲリオン」を連想する層の方が多いだろう。話がそれるからそっち系の話はここではスキップするが、気になった人は以下の記事など参照(タイトルに関連するのは前半部分)
村上龍のSF政治経済小説と「エヴァ」の関係
「コインロッカーベイビーズ」は以下。
というわけで、書くだけ野暮だが、俺にはユキ・ナツ・カホの3人が、上記のキャラクターに重なって見えるわけだ。(上條氏がこの辺を意識したかどうかはわからない。まぁ男2人・女1人の三角関係となると、こういうキャラ設定になるのが世の常ではある)
この先若干ネタバレが入るので閲覧注意。既読だからかまわない人とか未読だけど気にしない人だけ続行してください。



ここから再開。
作中ユキとカホが「境界を超えそうで超えない(やりそうでやらない)」シーンが何度か登場するが、俺は、でも多分終盤あたりでやるんだろうな?と予想してた。鈴原冬二とフルーツはやったからだ。
このキャラ設定は、そういう宿命なのだ。そしてその予想は当たった。実にくだらん予想だが、そのシーン、その「境界」の超えかたが、すごくクールだ。先にナツとカホがさらっと「境界」を超えるシーンもいいんだけど、こういうさりげない表現の一つ一つが、憎らしいくらい粋なのだ。
エロや恋愛感情が絡む場面に限らず、この「SEX」にはそんな絶妙な「間合い」で描かれたシーンが数多あり、それに出くわす度に「やられた!」と思う。
俺にとってはこれが、この漫画を読む時の最高の瞬間。おそらく、上條作品の中でこのような間合いの素晴らしさが最高に描かれているのが、「To-y」でも「8」でもなく、この「SEX」だと思う。(エロとは言ってるがこの作品には実際にエロいシーンは全く登場しないので、あしからず)
例えばなんだが、ユキがある企みのもと、カホをホテルに連れ込む場面がある(このときはやらない)
「ウォーターベッドの寝心地も悪くないだろ?」(ユキ)
「そーね。ユキも来たら?」(カホ)
一瞬沈黙。この後、次ページの、カホの表情がサイコーなのだ。もうたまらんのだ。あえてここには載せないが。
俺は、こういう場面(エロが絡むという意味ではない)の描きかたの妙技が、上條漫画の真骨頂だと思っている。上條氏、やたらと絵が評価されて、下手すりゃ絵や雰囲気だけの作家と勘違いされがちなんだが、俺は「おめーらの目はふしあなか!「絵」だけじゃないんだよ!この表現は「雰囲気」じゃねぇんだよ!」と大声で叫びたい。
ここで、「ふしあな」ついでにこの点についても言及。
一定の評価を得ている「To-y」はともかく、「SEX」については「なんでこんなに過小評価されなきゃあかんのか!?」と俺は不思議に思っていたが、このポイント自体が作品の重要なテーマにつながる。そこが、ユキの重要なセリフ「何を見てるかじゃねぇ….どう見えるか….」にシンクロするのだ。

ヒトによって対象が「どう見えるか」はそれぞれ違う。当然といえば当然のことではあるが、当然すぎて日常的に深く意識しないことでもある。
上條淳士「SEX」が「全部最高!」に見える自分と、「絵とか雰囲気を楽しむ作品」「2巻まではよかったけど後半はいまいち…」に見える人では、見ている(存在している)世界線が違いすぎる。そして、後者を「ふしあな」呼ばわりする自分もまた、それが真実ということではなく、「そう見える」だけだということもわかっている。
ただ「見える世界」は当然違ってていいんだけど、過小評価ばかり多くネット上に散らばってしまうと、過小評価バージョンの先入観でこの作品を捉える人が多くなってしまう。それは不公平だ。
最後は三角関係からズレたが、まぁよし。今後も別視点の「SEX」上げ記事を書く。