俺は、俺は、俺は〜〜〜〜…、SEXが好きすぎるんだ〜〜〜!
…て書くと、やはりアレがアレだよな。
まともに会話を進めようと思ったら、「SEX」の前に「上條淳士の」とか「漫画の」とか投入する必要が出てくる。いろんな意味で、改めてすごいタイトルだ。何がいろんな意味かというと、言いたいことは確実にあるんだが、説明を試みるとモヤモヤしてしまう。でもやってみよう。

「SEX」というタイトルについて、以下過去記事でも引用したがもう一度。
さて、この『SEX』というタイトル、連載が開始された80年代は言うまでもなく、現代の感覚で見てもなんとも過激なものだと思うが、その裏には作者のある意図が隠されている。
と言うのは、このタイトルでは、そもそも単行本をレジに持って行くことをためらうファンも少なくないだろう。それでも読みたいなら(手に入れたいなら)、自分の中の一線を越えてほしいというのが、おそらくは、上條がこのタイトルに託した想いの1つだ。
そう、そうした境界線を越える(あるいは自分の殻を壊す)という行為こそが、『SEX』という作品全編を貫く大きなテーマであり、つまり、本作のタイトルには、「男と女」はもちろん、子供と大人、集団と個人、日本とアメリカ、本土と沖縄、理性と本能、正義と悪などを隔てる境界線が象徴されているのだ。そしてそれは、本編では、「金網」という言葉で表わされている
上條淳士『SEX』連載35周年 アクション・コミックの傑作が問いかける、がんじがらめの「金網」世界で私たちはどう生きる?
上記は本人の弁ではないし「おそらくは」とあるから記者の推測と言える。しかし作品の内容と照らし合わせると、ほぼ正解だろうと思う。


引用箇所のコンテキストに沿ってこの作品を捉えてみると、「境界」というテーマと「SEX」というタイトルが「クラインの壺」のように、互いに呑み込み呑み込まれ合っているように見えてくる。そこがすごく面白い。この流れから、漫画という虚構の世界と、自分が存在しているこの現実が混ざり合うようになるからだ。
例えば、Amazonで何でもポチれる今の時代においては、「SEX」というタイトルの漫画を入手するのにためらうこともない。しかし、この本を電車やカフェで読むとしたらどうだろうか? ….正直、俺は一瞬躊躇した。でもまぁ、俺はカフェで読みたかったからカフェで読んだけど。
こんな風に、「境界」という作中のテーマと「SEX」というタイトルが現実に融合していく。つまり、漫画と現実の境界が消失する、または曖昧になる。現実の中で、自分自身の境界を意識し始める。俺はこれ自体が「SEX」という作品の本質でもあると思う。

上條氏は、「To-y」に関する対談で「現実と夢を地続きにしたかった。」と発言していた。その意図は当然「SEX」にも引き継がれているはずだ。それを狙ってこのタイトルをつけた上條氏のセンスは絶妙だ。作品自体の魅力とこの流れの合わせ技で、俺は「SEX」は上條氏の最高傑作だと思う。だからいろんな意味ですごい。…て、あぁやっと説明できた、伝わるかどうかはともかく。

ちなみに、作品の終盤間際くらいに実際に「クラインの壺」というタイトルの回がある。本来は数学的な概念だが、比喩的には、境界の曖昧化、消失。反転、裏返し、すり替え。ループ。…などが挙げられる。で、この回の何が「クラインの壺」なのか?と思って読み返してみたが、 わかったような、わからないような。考え始めると頭がモヤモヤして境界がぼやけてくる。あぁ、これもまた「クラインの壺」だな。(ちょっと違う気が)
(追記)
一晩寝て頭が整理されたら、「あーコレガソレで、アレがコレだから「クラインの壺」なのか!」と、一応わかった感じにはなったけど、これ以上意味不明な文章晒すのも何だし書くだけ野暮なので割愛。興味がある人は実際読んでみてくれ。(かなり重要なパートであるのは確か。とはいえここだけ読んでも意味不明なのも確実)
上條淳士の漫画「SEX」は「境界」が主要なテーマとなっているが、同時に、「(世界が)どう見えるか」ということも、色盲という設定のユキを絡めて重要なファクターになっている。前回記事でもそれに関することを少し書いたが、今回も若干その続きを。

かつて漫画家「上條淳士」が女性のパートナーと2人一組で執筆していることは、渋谷陽一のサウンドストリート(ラジオ番組)の上條淳士氏インタビューで聞いたことがある。まさに80年代「To-y」連載中の頃だったと思う。当時は名前も出てこなかったが、パートナーの名は村瀬葉子(YOKO)氏。しかし後にコンビを解消することになる。時期は不明。
俺は「To-y」はリアルタイムで連載読んでいたが(毎号ヤンサン立ち読みで。ビンボーだったもんで…)、その後は漫画全般に対する関心が薄れてしまい、「SEX」は読んでいなかった。
「SEX」をリアルタイムで読んでいた読者からは、YOKO氏が離れた後の絵がどうも…という意見があるようだ。「SEX」の後半から変わってきたとか。が、俺はYOKO氏不在時とそうでない時期の、上條漫画の絵の違いがわからない。違いが見えない。見えないのは、その世界線に関心がないからだ。注意深く観察すればわかるのかもしれない。量子力学的には、観察者の意志の強度によって観察結果、つまり見える世界が変わってくるという。でも、わかったところで何なんだ?と思うから、注意深く観察する気もない。そんなことより、俺はただこの素晴らしい傑作漫画の世界を楽しみたいんだ。

違いがわからないと言ったものの、さすがに80年代に(おそらくYOKO氏により)描かれたカホの顔と、2017年にカバー用に上條氏が書き下ろしたカホの顔が違うことくらいは、わかる。しかし、それが何だというのだろう?
1人の漫画家が書き続けていても、連載途中でタッチや人物の顔が変化するのは普通にあることだ。「初期の方が好き」「今の方が好み」と読者によって感想は変わるだろうけど、まさに好みの問題で、ジャッジを下す問題でもない。いや別に、ジャッジを下す自由はあるけど、この周辺に関してネット上に否定的な意見が蔓延するのは俺的に納得いかないからこの記事を書いている。

量子力学を持ち出さなくとも、ヒトは基本的に関心がない事柄は見えないもんだ。無条件で「SEX」サイコーだよ!な俺には(やっぱ、語弊が…)、この作品の絵が全編通してカッコよくしか見えない。「キメ」のページはもちろん、小さいギャグっぽいシーンの表現とかも、全部いい!最高かよ!
…という風に、俺には見えているんだな。
上條淳士「SEX」(30th Anniversary Edition)読了。大分前から読みたいと思っていたんだけど…、Amazonでポイントが4000以上貯まるのを待ってポイント使って、やっと読めた。

いい。本当に、全部いい。ストーリーも含めて全部。
…と、俺的には最高に痺れる作品だと思うんだけど、ネット上の記事を拾うと「絵や雰囲気を楽しむ作品」といった見方が大半で、ストーリーに言及したものがほとんどない。また、前半くらいまでは面白かったが後半は微妙…的に、後半部分で評価を下げたり。いや、ストーリーとか、後半含めて全部最高なんだけど!?何なんだその評価は…!? と、モヤモヤがたまりまくった。
その流れで、「ええわ、ほんならわいが書いたるで!!」と思ったから書く。
といってもガチガチなお固い論評をここで展開する気はさらさらなく、気になったことを勝手につらつら述べるだけだけど。
まず自分的に取り上げたいポイントが、“Triangle Relationships”。どうも日本語にすると下世話なイメージになってしまうが、いわゆる「三角関係」だ。
三角関係となると村上龍の「コインロッカーベイビーズ」や「愛と幻想のファシズム」を連想せずにいられず。ちなみに一応説明しておくと、「愛と幻想のファシズム」の主要な登場人物は以下。
鈴原冬二、相田剣介と聞けば「新世紀エヴァンゲリオン」を連想する層の方が多いだろう。話がそれるからそっち系の話はここではスキップするが、気になった人は以下の記事など参照(タイトルに関連するのは前半部分)
村上龍のSF政治経済小説と「エヴァ」の関係
「コインロッカーベイビーズ」は以下。
というわけで、書くだけ野暮だが、俺にはユキ・ナツ・カホの3人が、上記のキャラクターに重なって見えるわけだ。(上條氏がこの辺を意識したかどうかはわからない。まぁ男2人・女1人の三角関係となると、こういうキャラ設定になるのが世の常ではある)
この先若干ネタバレが入るので閲覧注意。既読だからかまわない人とか未読だけど気にしない人だけ続行してください。



ここから再開。
作中ユキとカホが「境界を越えそうで越えない(やりそうでやらない)」シーンが何度か登場するが、俺は、でも多分終盤あたりでやるんだろうな?と予想してた。鈴原冬二とフルーツはやったからだ。
このキャラ設定は、そういう宿命なのだ。そしてその予想は当たった。実にくだらん予想だが、そのシーン、その「境界」の越えかたが、すごくクールだ。先にナツとカホがさらっと「境界」を越えるシーンもいいんだけど、こういうさりげない表現の一つ一つが、憎らしいくらい粋なのだ。
エロや恋愛感情が絡む場面に限らず、この「SEX」にはそんな絶妙な「間合い」で描かれたシーンが数多あり、それに出くわす度に「やられた!」と思う。
俺にとってはこれが、この漫画を読む時の最高の瞬間。おそらく、上條作品の中でこのような間合いの素晴らしさが最高に描かれているのが、「To-y」でも「8」でもなく、この「SEX」だと思う。(エロとは言ってるがこの作品には実際にエロいシーンは全く登場しないので、あしからず)
例えばなんだが、ユキがある企みのもと、カホをホテルに連れ込む場面がある(このときはやらない)
「ウォーターベッドの寝心地も悪くないだろ?」(ユキ)
「そーね。ユキも来たら?」(カホ)
一瞬沈黙。この後、次ページの、カホの表情がサイコーなのだ。もうたまらんのだ。あえてここには載せないが。
俺は、こういう場面(エロが絡むという意味ではない)の描きかたの妙技が、上條漫画の真骨頂だと思っている。上條氏、やたらと絵が評価されて、下手すりゃ絵や雰囲気だけの作家と勘違いされがちなんだが、俺は「おめーらの目はふしあなか!「絵」だけじゃないんだよ!この表現は「雰囲気」じゃねぇんだよ!」と大声で叫びたい。
ここで、「ふしあな」ついでにこの点についても言及。
一定の評価を得ている「To-y」はともかく、「SEX」については「なんでこんなに過小評価されなきゃあかんのか!?」と俺は不思議に思っていたが、このポイント自体が作品の重要なテーマにつながる。そこが、ユキの重要なセリフ「何を見てるかじゃねぇ….どう見えるか….」にシンクロするのだ。

ヒトによって対象が「どう見えるか」はそれぞれ違う。当然といえば当然のことではあるが、当然すぎて日常的に深く意識しないことでもある。
上條淳士「SEX」が「全部最高!」に見える自分と、「絵とか雰囲気を楽しむ作品」「2巻まではよかったけど後半はいまいち…」に見える人では、見ている(存在している)世界線が違いすぎる。そして、後者を「ふしあな」呼ばわりする自分もまた、それが真実ということではなく、「そう見える」だけだということもわかっている。
ただ「見える世界」は当然違ってていいんだけど、過小評価ばかり多くネット上に散らばってしまうと、過小評価バージョンの先入観でこの作品を捉える人が多くなってしまう。それは不公平だ。
最後は三角関係からズレたが、まぁよし。今後も別視点の「SEX」上げ記事を書く。