上條淳士 「SEX」 (4) - Boundary
俺は、俺は、俺は〜〜〜〜…、SEXが好きすぎるんだ〜〜〜!
…て書くと、やはりアレがアレだよな。
まともに会話を進めようと思ったら、「SEX」の前に「上條淳士の」とか「漫画の」とか投入する必要が出てくる。いろんな意味で、改めてすごいタイトルだ。何がいろんな意味かというと、言いたいことは確実にあるんだが、説明を試みるとモヤモヤしてしまう。でもやってみよう。

「SEX」というタイトルについて、以下過去記事でも引用したがもう一度。
さて、この『SEX』というタイトル、連載が開始された80年代は言うまでもなく、現代の感覚で見てもなんとも過激なものだと思うが、その裏には作者のある意図が隠されている。
と言うのは、このタイトルでは、そもそも単行本をレジに持って行くことをためらうファンも少なくないだろう。それでも読みたいなら(手に入れたいなら)、自分の中の一線を越えてほしいというのが、おそらくは、上條がこのタイトルに託した想いの1つだ。
そう、そうした境界線を越える(あるいは自分の殻を壊す)という行為こそが、『SEX』という作品全編を貫く大きなテーマであり、つまり、本作のタイトルには、「男と女」はもちろん、子供と大人、集団と個人、日本とアメリカ、本土と沖縄、理性と本能、正義と悪などを隔てる境界線が象徴されているのだ。そしてそれは、本編では、「金網」という言葉で表わされている
上條淳士『SEX』連載35周年 アクション・コミックの傑作が問いかける、がんじがらめの「金網」世界で私たちはどう生きる?
上記は本人の弁ではないし「おそらくは」とあるから記者の推測と言える。しかし作品の内容と照らし合わせると、ほぼ正解だろうと思う。


引用箇所のコンテキストに沿ってこの作品を捉えてみると、「境界」というテーマと「SEX」というタイトルが「クラインの壺」のように、互いに呑み込み呑み込まれ合っているように見えてくる。そこがすごく面白い。この流れから、漫画という虚構の世界と、自分が存在しているこの現実が混ざり合うようになるからだ。
例えば、Amazonで何でもポチれる今の時代においては、「SEX」というタイトルの漫画を入手するのにためらうこともない。しかし、この本を電車やカフェで読むとしたらどうだろうか? ….正直、俺は一瞬躊躇した。でもまぁ、俺はカフェで読みたかったからカフェで読んだけど。
こんな風に、「境界」という作中のテーマと「SEX」というタイトルが現実に融合していく。つまり、漫画と現実の境界が消失する、または曖昧になる。現実の中で、自分自身の境界を意識し始める。俺はこれ自体が「SEX」という作品の本質でもあると思う。

上條氏は、「To-y」に関する対談で「現実と夢を地続きにしたかった。」と発言していた。その意図は当然「SEX」にも引き継がれているはずだ。それを狙ってこのタイトルをつけた上條氏のセンスは絶妙だ。作品自体の魅力とこの流れの合わせ技で、俺は「SEX」は上條氏の最高傑作だと思う。だからいろんな意味ですごい。…て、あぁやっと説明できた、伝わるかどうかはともかく。

ちなみに、作品の終盤間際くらいに実際に「クラインの壺」というタイトルの回がある。本来は数学的な概念だが、比喩的には、境界の曖昧化、消失。反転、裏返し、すり替え。ループ。…などが挙げられる。で、この回の何が「クラインの壺」なのか?と思って読み返してみたが、 わかったような、わからないような。考え始めると頭がモヤモヤして境界がぼやけてくる。あぁ、これもまた「クラインの壺」だな。(ちょっと違う気が)
(追記)
一晩寝て頭が整理されたら、「あーコレガソレで、アレがコレだから「クラインの壺」なのか!」と、一応わかった感じにはなったけど、これ以上意味不明な文章晒すのも何だし書くだけ野暮なので割愛。興味がある人は実際読んでみてくれ。(かなり重要なパートであるのは確か。とはいえここだけ読んでも意味不明なのも確実)